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道を修むる 之を教と謂う  10月度 つくば木鶏クラブ

天の命ずる 之を性と謂い

性に率う 之を道と謂い

道を修むる 之を教と謂うなり

中庸(月刊誌 致知 2013年11月号 巻頭の言葉より)

 

今月で三回目となる『つくば 木鶏クラブ』

今回は、カフェの多いつくばでも随一の人気を誇る『PLUS‐1 CAFE GARDEN』での開催となりました。

 

 

高校生からお孫さんのいる年代の方まで幅広いメンバーが集い、同じ文章を読み、読後感を語り合います。同じ文章でも人によってとらえ方や連想するものは違う。

 

それは、すべての人が人と異なる人生を生きているからです。

 

当たり前のことですが、時に私たちはそれを忘れ、同じであることや同調することを重視してしまいます。違いを尊重し、違いから学び、切磋琢磨する。主催者の一人として、そんな場にしたいと取り組んでいます。今日のブログは、そんな多様なメンバーと話したことを織り交ぜながら、中庸の言葉を紐解いてみます。

 

「天」とは何か?

11月の致知の巻頭の言葉は、個人的に尊敬している方の一人である伊與田 覺さんでした。大正五年生まれで安岡正篤氏に師事。数年前、講演をお聴きした際に、まったく衰えを感じさせない話し方、そして実践されている方だからこそ言える深く本質的な言葉に感動しました。

 

さて、その伊與田さん。今回は中国古典の中でも代表的なものの一つである『中庸』(ちゅうよう)の言葉を取り上げています。そして、中庸の冒頭の言葉を短文に区切って説明してくれています。

 

「天の命ずる 之を性と謂い」

「天」という概念は同書の最後にも登場し、「声も無く臭も無し」と記されています。天について説明するならそれだけで膨大な紙幅を要しますが、ここでは、我われの表面的な感覚器官ではとらえられないけれども、すべてを生み出すもととなる摩訶不思議なそんざいがある、ということだけ認識しておいてください。

木鶏クラブの中でも話したのですが、私はこの「天」という感覚と言いますか、存在を認めるのにずいぶん長い時間を要しました。

20代の頃は、「運が良いね」や「天命だ!」などの言葉が嫌いで、何事も自分次第だという思いで日々を過ごしていました。

しかし、子供が生まれ、家庭でも仕事でもさまざまな経験を積む中で次のように考え始めました。

 

人間が知っている、分かっていると思っていることは、この世界のほんの一握りのこと。ましてや、自分が知っていることなど微々たること。突き詰めれば、分からないことだらけの世の中を自分は生きている。知ったかぶりなど勿体ないことはせず、あらゆるものから謙虚に学ぼう。

 

と考えるようになりました。そうしてしばらく経つと、尊敬する方々や歴史上の人物が「天」という存在を意識していることに気づきます。それが30代に入ってからでした。ですので、私の「天」の認識はまだまだ浅いと思います。ということで、ここで多くを語ることはしません(笑)

ということで、再び伊與田さんの言葉をお借りします。

「命」という字には二つの意味があります。一つは働きという意味。天命とは天の働きであり、我われは天の働きによって生命を受け、ここに生きているのです。もう一つの意味は命令。天の命令は絶対であり、天の働きによってこの世に生まれてきた者は、すべて天の命令、つまり使命を帯びて生きているのです。

天命とは、自分の意思ではどうにもならないもの。と、単純に解釈しています。東日本大震災では、人間(自分)の力ではどうにもならないこと。意思とは無関係に起こる出来事をたくさん体験しました。

命令と言われると少し抵抗も感じますが、逆らうことのできない大きな流れや出来事と捉えています。

 

「性」と「道」

「性」とは天から与えられた特質です。桜の木と梅の木が異なるように、人間も一人ひとりに異なる特質が与えられています。天の命ずるところの生を発揮してこそ、この世に生まれた意味があり、そのためにも自分に与えられた性を知ることが大切です。

「性に従う 之を道と謂い」

性に従って歩んでいくことを道といい、道とは目標に到達するルールです。自分に与えられた性を知り、これを発揮するには独自のルールがあり、そのルールに従って自分の道を行くことが大切です。

両親から受け継いだ、あるいは生まれながらに持ち合わせた自分の特徴。この特徴を知り、上手に生かすことで自分らしく生きることができる。まだ三十数年の人生ではありますが、ときにそれを実感します。ただ、それは「自分の特徴を生かす」という選択であって「有無を言わずに親の言うことを聞く」ことでも「遺伝だと諦める」ことでもありません。あくまで、人との違いを生み出している特徴として捉え、どう生かすかを考える。そんなスタンスで性と向き合うとうまく行くような気がしています。

 

そして道。日本人は特にこの道という感覚を大切にする民族だと言われますが、日本人という性を持って生まれた自分も大切にしています。

 

「自分に与えられた性を知り、これを発揮するには独自のルールがある」と伊與田さんは仰いますが、では独自のルールとは何でしょうか?木鶏クラブの中でもそれが話題となりました。

 

現時点で、私は独自のルールを「自然の摂理」あるいは七つの習慣で言うところの「原理原則」と捉えています。あるいは先人たちが見つけ出した、自己実現・超越のための指針とも言えます。これについては詳しく書き出すと今夜は眠れなくなるので、また別の機会に書くこととします。

 

「教」と「枝折り」

「道を修むる 之を教えと謂うなり」

その道を修めていくことは容易ではなく、独力では一生求めてもなかなか到達できないかもしれません。ゆえに迷うことなくその目的地に到達するための手引き、教えがあるのです。

先に山に登った人が、後から来る人たちのために自分が通ったところの枝を折って目印に置いておくことを枝折りといいます。ありがたいことに世の中には、生きながらルールを見出し、人間完成の域に迫った人たちがいます。そうした先人たちが、「この道を通れば大きな間違いはないぞ」と残してくれた道しるべが教えなのです。

先人の残した、大きな間違えをしないための道しるべ。それが道だと伊與田さんはおっしゃいます。

 

会の中でもある方が経験談をお話しされていました。先人(先輩たち)が残したマニュアルに従って行動した人たちが、ベテランを自負して行動した人たちと比べ、大きな成果を上げたというお話です。

 

先人たちの教訓から、真摯に学ぶ姿勢。守破離という言葉もありますが、まずは基本の型、先人の教えに忠実になることも大切で、型を破り、独自の型を生み出すのはその先にあるもの。

 

20代の頃、年間100冊を目標とし、ビジネス書を中心にさまざまな本を読んでいました。結果、分かったことは、多くの本が伝えたいことは似通っており、そのほとんどが現代まで読み継がれている古典に書いているということでした。

 

世の中は常に変化し続けていますが、表面的な変化に囚われず、本質的・根本的なものに目を向けると、人類の歴史上ほとんど変わらないものがある。それが教えである。ということなんだと思います。

 

 

今回の木鶏クラブは、この巻頭の言葉について話し合うだけで2時間が経過し、その他の記事に進むことができませんでした(苦笑)

とはいえ、参加された皆さんのお話からたくさんの学びを得ました。そして、今回初参加となった高校生からは「自分ももっと努力しよう!」と思えるような貴重な話を聴くことができました。

 

 

11月の木鶏クラブも今から楽しみです。



 

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