Blog TOP > 「老人と松 人を育てるということ」

老人と松 人を育てるということ

人を育てる

 

 老人が松の苗木を植えていた。通りかかった君主が老人に年齢を尋ねた。

 「八十五になります」

 君子は笑った。「その松が立派な木材になっても、自分では使えないだろうに」と。

 八十五翁は言った。

 「国を治めている人の言葉とは思えませぬ。私は自分のためではなく、子孫のために植えているのです」

 君子は恥じ入るほかはなかった。

 

 太宰春台の『産話』にある話である。

 

 人を育てるのもまた、かくの如しだろう。一人ひとりを丁寧に教育し、根づかせ、成長をうながす。だが、そうして育てた人たちが担う次代の豊かさを、先人達が享受することはない。

 それでも人を育て続けなければならない。それは命を受け継いで後から来る者に対する、先行する者の不可欠な責務なのだ。

小さな人生論「致知」の言葉 藤尾 秀昭 著より

 

恩返しではなく「恩送り」

自分のためではなく相手のために。

いまのためではなく未来のために。

見返りのためではなく、受け継いでいくために。

人材開発・人材育成という仕事に携わり、二児の父として日々生活している私にとって、 この話しから得た気づきはとても重要なものだと感じています。

以前の私は「業績を高めるために部下を育成する」「言うことをきく素直な子とするために子供を育てる」というような、少し傲慢な姿勢で後輩や子供達と向き合っていたように思います。しかし、相手はそんな私の姿勢を感じ取ります。私の言っていることではなく、やっていること(傲慢な姿勢)に影響されてしまいます。

 

 教育ではなく「共育」

誰かの成長を支援しよう、育てようとする行為は、結果として自分自身の成長機会であると実感しています。相手から見返りがあるのではなく、自分自身が成長することで結果としてプラスになる。また、教学半( 教うるは学ぶの半ば)という言葉もあります。人に何かを伝えようとすると、新しい視点でその事を捉えることができたり、より深く考えるきっかけとなったりすることがよくあります。

 

老人が松の苗木を植えていたのは、孫や子供達が木材として使うためであり、その「恩送り」という姿勢を次世代に伝えるためであり、自分自身の成長のためだったのではないでしょうか。

 

未来を生きる子供達のために・・・松の苗木のような”なにか”を私達も植え続けていきたいものですね。 



 

このページの先頭へ